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湿血帯不快指数

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SS「無い憑座」更新と、水辺の雑記
久々の凪視点の短編。しかし今回、人修羅(功刀)は殆ど登場しません。ライドウと二名で行動させた時にどうなるかな、と思い書きました。結果、ライドウは割と大人しく凪を指導するし、凪はいつも通り意思表明はハッキリする。ただし両者ともどこかテンションが低いです。
おまけSSをWeb拍手(サイトTOP)の御礼として掲載中なので、宜しければそちらも併せてお楽しみください。

さて劇中に登場する水辺は、自分が過去何度か足を運んでいる滝壺を思い浮かべながら書きました。過去ブログ(memo)でも紹介した気もしますが、改めて。朝靄に包まれた景観が大変美しく、はっきりと感動したのを憶えています。
以下、水辺の雑記。


夜中に車で山中へ向かい、空の白み始めた頃に徒歩で20分程度下りた先の淵。一応、枕木の様に丸太が固定されているが、場所によっては植物に覆われてしまっている。これで真っ暗だと歩行ルートを見失いそうになる上、野生動物が来たら逃げようもないので、流石に夜中に下りる事は避ける。熊注意の標識を良く見るが、今のところは目撃していない。


この2枚は2代前のガラケ撮影の為、小さなサイズしか残っていなかった。雨や嵐の後でなければ、水面はだいたい緑青色をしている。季節は秋から冬に入ったくらいの頃だったか。冬本番の場合、この地帯は積雪するので自分達は侵入出来ない(車がスタッドレスタイヤだろうが、雪歩きに慣れていない上、山道など無謀と思われる)

この淵(滝壺)も椀貸伝説が有る、神は龍の姿をしており、地名にも竜とある。此処の権現様い、雨乞いをしたり、膳椀を借りたりした。
4枚目の写真に写る注連縄だが、これは撮影の数年後に消えていた。当時から気になっていたが、今回改めて調べてみたら意外な所で情報入手、フェイスブックだ。なんと女人禁制の結界だったらしい…
えっ!!!!(結界内には入らなかったものの、水には触れた)
しかし、地元人も泳いだ経験あるそうで、管理側(国土交通省の役人)も女性だろうが気にせず侵入しているそうだ。そもそも、此処に3回は赴いたものの一度も人と遭遇していないので、来訪者じたい少ないのだろう。集落からならばともかく、郊外や街から向かうと車で3時間はかかる、そこから更に歩くのだから、まあ面倒だ。観光地化しないお陰で、かなり美しく保たれているのが現実。いやしかし、注連縄は有った方が良い気がするが、はたして。



別の日中撮影した写真、こちらの方が吊橋のレリーフ(龍)がよく分かる。明るい中で見ると、吊橋支柱のカラーが背景と一体化するようで面白い。網目の足場は非常に狭く、サイドもスカスカなので足を踏み外すと片脚は抜け落ちると思う。

此処は河◇内◇川(読みは「こうちがわ」検索避け)の流れにあたるのだが、この川の言い伝えもなかなか興味深い。
平安の頃、逃げてきた武将が藤つるの橋を斬り落とし、追手75人を落下させたと。其処へ更に岩を転がり落としたので、七日七夜、川は真っ赤だったと。それから厚血(こうち)という名が付いた。
物騒な由来だが、この〝逃げてきた武将〟の正体も気になる。「鎌倉に幕府の出来る以前」とあるので、平家の人間だろうか?
実はこの付近に「隠れ里」があり、其処は落ち延びた平家の村という話がある。300年ほど世間に認知されておらず、下流の人里に椀が流れてきて発覚したらしい(しかし平家集落というよりは、南朝系〇〇親王の一族が流れ着いた…という方が、信憑性の高い気はする。村に残る家紋や、資料からみて。)
村民は皆同じ姓であり、明治時代のレポートによれば〝昔は血族結婚していた〟そうだ。柳田國男や折口信夫も取材に赴いており、惹かれるのもまあ分かる。昭和40年頃に廃村となっているが、割と綺麗に残っている。しかしこの里こそ本当に困難な道のりなので、多分行く事は無い。里というものは辺鄙な処にある(侮蔑ではない)というイメージは、此処のせいか強化された。

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